教会紹介
生田丘の上キリスト教会は、日本福音キリスト教会連合に属するプロテスタント教会です。
私たちの教会は、聖書を神のことばと信じる正統的なキリスト教信仰に立っています。
聖書には、イエス・キリストによる救いの良き知らせが記されており、その救いを何とか地域の方々に知っていただきたいと願っています。
私たちの教会の特徴は、親と子どもが一緒になって礼拝をする家庭的あたたかみでしょう。
礼拝やその他の集会に出席することはどれも自由です。ぜひ一度お出かけください。私たちは心より歓迎いたします。
年間目標
毎年秋頃から翌年度の教会活動について祈りつつ皆で話し合い始めます。その最初は、まず指針とすべき聖書のことばを探り求めることから始めます。
2024年度の年間目標と聖句
「神のご計画と私たち」わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ書 29章11節)
教会の歩み
1960年にドイツ人宣教師ファッター先生により家庭集会が開始しされ、翌年「東生田キリスト教会」を設立。
現在の教会の場所にリーベンゼラ・ミッションが土地を購入、1962年に会堂が建てられました。
以後初代日本人牧師として井戸垣師、1964年から2代目牧師として田辺師が25年間奉仕され、教会の基礎が据えられました。
1989年に岡田徳厚牧師就任。1990年からは鞭木由行牧師にバトンタッチされ、1991年宗教法人取得に伴い名称を「生田丘の上キリスト教会」と変更しました。
2000年に新しく現在の会堂が建設され、2005年にはパイプオルガンが設置されました。
2009年に鞭木牧師から山口康友牧師に、2014年には現在の野村天路牧師が就任しました。
牧師
野村天路(たかみち)
1987年、福岡生まれ。
機械や化学実験に興味を持ち、化学者になるつもりで大学工学部に入学。
しかし、大学では化学よりも教会とキリスト教神学に多く関わりました。
そして、献身の決意が与えられ、大学卒業後、神学校(聖書宣教会)に学び、2014年4月から生田丘の上キリスト教会で牧会。
三児の父、現在子育て奮闘中です。
信仰告白
この教会ならびに教会員は、聖書に基づいてその真理を告白してきた世々の教会とともに、以下のことを告白する。
使徒信条
私は、天地の造り主、全能の父である神を信じます。
私は、そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして、全能の父である神の右に座しておられます。そこから来られて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。
私は聖霊を信じます。聖い公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン
ニケヤ信条
私たちは、唯一の神、全能の父、天と地・見えるもの見えないもの・すべての創造者を信じます。
私たちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はあらゆる代々に先立って父より生まれた方、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と本質において同じです。主によってすべては造られました。主は私たち人類のため、また私たちの救いのため天から下り、聖霊と処女マリヤによって受肉し、人となり、私たちの身代わりとしてポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、三日目に聖書に従って甦り、天に昇り、父の右に座り、生きている者と死んでいる者とを裁くために栄光をもって再び来られます。彼の御国には終わりがありません。
私たちは、聖霊を信じます。聖霊は、主、命を与える方、父と子より出で、父と子とともに礼拝され、ともに栄光を受け、預言者を通して語られます。私たちは、唯一の聖なる公同の使徒的教会を信じます。私たちは、罪の赦しのための唯一のバプテスマを告白します。私たちは、死者の復活と来たるべき世の命を待ち望みます。
アーメン。
生田丘の上キリスト教会信仰告白
聖書
1、旧新約66巻よりなる聖書は、それぞれの著者が神の霊感によって記した神のことばである。すなわち、聖書は、それぞれの著者によって、聖霊の完全な指導と監督のもとに記され、その結果、その記述には誤りがなく、神が救いについて人々に啓示しようとされたすべてのことを含み、信仰と生活との唯一絶対の規範である。
したがって、聖書に誤りがありうるとすること、聖書は客観的には神のことばではないが人間の諸経験によって神のことばとなるとすること、聖書の上に、または聖書と並列した権威を認めようとすることは、容認できない。
神
2、唯一の生けるまことの神は霊であり、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実、愛、恵みにおいて、無限、永遠、不変の方である。
したがって、被造物、祖先の霊などを神とすることは、容認できない。
三位一体
3、この唯一の神は、父、子、聖霊の三位において永遠に存在する。
したがって、御子または聖霊の神性を否定することは、容認できない。
創造
4、父・子・聖霊なる神は、御自身の栄光の現われるため、ことばをもって、無から、目に見えるもの・見えないもののすべてを、はなはだよく創造された。
したがって、無神論や神の主権を否定したり、制限したりすることは、容認できない。
摂理
5、創造者である神は、摂理によって、すべての被造物を保ち、支配し、すべての出来事、歴史を御自身の永遠の御計画の成就へと導く。
したがって、理神論、運命論、その他、神はこの創造した世界に関心を持たないとすることは、容認できない。
人間の起源・堕落
6、人類の父祖アダムは、神のかたちに創造され、神との正しい交わりにあったが、サタンの誘惑により、神の戒めにそむいて罪を犯し、罪の汚れと刑罰をこうむり、死の支配下におかれた。全人類は、このアダムにおいて罪を犯したので、罪の性質を持って生まれ、新しく生れないかぎり、罪の支配と滅びの中にある。人類のすべての苦悩と悲惨の根源はここにある。
したがって、人の原罪を否定すること、あるいは新生なくして社会の改善によって救いをこさせようとすることは、容認できない。
イエス・キリストの位格
7、主イエス・キリストは、真の神にして真の人である。主は、聖霊によってやどり、処女マリヤより生まれ、私たちの罪のため、私たちの身代りとして十字架の上で死に、葬られ、陰府にくだり、三日目によみがえられた。主は、天に昇り、神の右に座して、今私たちのための大祭司の努めをしておられる。
したがって、イエス・キリストの神性あるいは人性のいずれかを否定すること、十字架の救いを否定すること、復活が歴史的事実であることを否定することは、容認できない。
イエス・キリストの御業
8、主イエス・キリストの身代りの死のゆえに、主を信じるものは、みな、ただ恵みにより、その信仰によって義と認められ、神の子とされ、罪の支配と刑罰から解放され、永遠のいのちを与えられる。
したがって、救われるためにはキリストの贖いを信じるのみでは足りないとすることは、容認できない。
聖霊の御業
9、聖霊は罪人に罪を示し、悔い改めさせ、キリストを救い主と告白する信仰を与えられる。また、信じるもののうちに助け主として住み、絶えずとりなし、日々献身と聖潔の生活をおくる力を与え、こうしてキリストのかたちにかたどらせるみわざをなし続けられる。
したがって、聖霊のみ業を、キリスト者の中の特定の人、あるいは特定の体験や賜物のみに、限定したり関連づけたりすることは、容認できない。
キリスト者
10、キリスト者は、キリストの恵みにより頼み、みことばと祈りによって神のみこころに生きる。キリスト者は、神の栄光のため、世の終りまで共にいて下さるキリストにすべてをささげて従い、全力を尽くして神を愛し、兄弟姉妹に仕え、また世にあってキリストの証人として歩むよう召されている。
したがって、主の戒めを無視し、汚れた生活に安住し、聖日を軽視するような生き方は、容認できない。
聖徒の堅持
11、キリスト者は、皆、神に選ばれ、聖霊によって有効に召され、キリストの血によって贖われた聖徒である。それゆえ、一度この救いにあずかった者は、その恵みの状態から全的に、また最終的に脱落することはなく、神はその聖徒を永遠に堅持して下さる。
したがって、一度新生し、義と認められた者も、恵みを軽視し、聖霊を悲しめることによって滅びることがありうるとすることは、容認できない。但し、これは、私たちが安逸な生活をしても救いは保証されているということを意味しない。
教会
12、みことばの宣教により、聖霊によって新生したキリスト者の集まりである教会は、キリストをかしらとし、教会員一人一人を器官とするキリストのからだである。教会は、かしらであるキリストにあって成長する。すなわち、教会は、聖書を学び、礼典を守り、戒規を執行し、キリストにある一致と聖潔をめざして戦い、全世界にみことばをのべ伝えつつ、主の再び 来られる日を待ち望む。
したがって、教会を単なる人間的な組織・制度あるいは運動とすることは、容認できない。
死後の問題
13、キリストの再臨の以前に死んだ者は、死後、その肉体は、塵に帰るが、その魂は、完全に聖くされ栄光の中に入れられる。キリストの再臨まで生存している者は、死を味わうことなく栄光の体に変えられ、主に迎えられる。
したがって、主にあって死んだものが再臨のときまで無意識のうちに眠っているとすることは、容認できない。
終末
14、主イエス・キリストは、やがて、栄光のみからだをもって、見えるかたちで再臨される。そのとき、死者は、キリスト者も非キリスト者も、からだをもってよみがえらされ、主のさばきの前に立つ。主は、信じる者を永遠の祝福に、信じない者を永遠の刑罰へとわかち定められる。終わりに主は、すべてのものを新たにし、御国を父なる神に渡される。
したがって、主の再臨を否定すること、主はすでに再臨されたとすること、あるいは主は、単に天的、霊的にのみ再臨されるとすることは、容認できない。